D:歴史探索コース
古川記念館(博物館)
名古屋帝国大学が昭和14(1939)年に創立された際、図書館と講堂を建設するため地元の政財界が巨額の寄附を集めたが、戦中の物不足や戦後のインフレのため実現しなかった。東山キャンパスへの図書館の建設は、名大の念願であったが、国費による建設は困難な状況であった。
そのような中、杉戸清名古屋市長等の仲介で、名古屋を発祥とする日本屈指の映画会社「日本ヘラルド映画」の創立者古川為三郎と志ま夫人による2億円の寄附により、東山に図書館が建てられることになった。事業を拡大していた当時の古川には、個人による寄附は1億円が限度であったが、志ま夫人が明日の日本を背負う若者たちのためならと自分の財産をなげうつ決意を述べると、古川は土地を売って残りの1億円をつくることにした。
昭和39年に竣工した新図書館は「古川図書館」と名付けられ、昭和56年に現在の中央図書館ができるまで、名大の中央図書館としての機能を果たした。
建築の設計は、東宮御所、帝国劇場、東京国立博物館東洋館、藤村記念館などの設計で知られる建築家・谷口吉郎(当時・東京工業大学教授)。土地の高低差を活かした層構成や最上階の張り出しによる、豊田講堂から続くグリーンベルトの東西軸に協調する伸びやかな水平性。打ち放しコンクリートの庇・梁・柱の「線」を強調した繊細なディテール。閲覧室として計画された折版状の天井から光が差し込む伸びやかな吹抜空間(現展示室)など、円熟期を迎えた谷口の技が冴えるモダニズムの名建築である。
古川図書館落成祝賀会で万歳の音頭を取る篠原卯吉名大総長(右)と古川為三郎氏(左)
田村模型(名帝大キャンパス構想模型)
名古屋帝国大学(名帝大)が創立された昭和14(1939)年頃に、当時の田村春吉医学部長(のちの第2代総長)が、東山キャンパスの将来構想を練るため島津製作所に造らせた。
医学部を鶴舞から東山へ移転させることが想定されており、医学部の校舎が置かれることが予定されていたエリアには、その中央を貫く広い道(実際にはない計画道路)が組み込まれている。田村は、名帝大創立運動の中心人物であり、創立後もその総合大学としての発展に情熱を傾けたが、この模型はその情熱を如実に物語っている。
戦後になって行方不明になり、文献でしか存在が確認できない「幻の田村模型」と言われていた。それが平成17(2005)年、豊田講堂の全面改修にのためその倉庫を整理している際に発見された。これをクリーニングしたうえでケースに入れ、名大の創立期を語る貴重な物品資料として長く保存することにした。
平成17(2005)年に豊田講堂地階倉庫で発見された時の田村模型
坂田記念史料室(ES総合館)
坂田昌一(1911-1970)は、平成20(2008)年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英・小林誠両博士の指導教官で、現在の素粒子物理学の基礎を築いた世界的な物理学者である。坂田が両博士に与えた影響は大きく、益川博士はノーベル賞を受賞した際、これで多少なりとも「坂田物理」を世界に顕示できたと語っている。
ここには、坂田の膨大な個人史料が保存されている(利用には事前申請が必要)。原稿や手記、ノート、メモ、書簡類、蔵書のほか、日本学術会議原子核特別委員会など坂田が関わった機関の史料も含まれ、名大史にとどまらない、世界の物理学史を語るきわめて貴重な史料群となっている。
理学部B館の坂田教授室をできるだけそのままの形で残し、そこに史料を保存して坂田記念史料室としてきたが、平成23年にES総合館が完成し、館内に2008ノーベル賞展示室が設置されると、その室内に坂田史料も移された。
理学部B館にあった頃の坂田記念史料室
勝沼精蔵像
昭和40(1965)年に名大の医学部内科第一講座同窓会が建立した。勝沼精蔵(1886-1963)は、血液学の権威として知られ、大正15(1926)年には若くして帝国学士院賞(現日本学士院賞)を受賞し、昭和29年には文化功労者に選ばれ、文化勲章も受章している。
勝沼は、昭和24年から34年にかけて名大総長を務め、多くの事蹟を残したが、その最後の大仕事が豊田講堂の建設を決めたことであった。当時の財政状況では名大が独自に講堂を建てることは不可能であり、勝沼はトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の石田退三社長を熱心に説き、同社の全額寄附による建設の承諾を得た。
昭和35年の豊田講堂完成時にはすでに総長を退任していたが、この勝沼像が豊田講堂内に置かれた理由は以上の経緯による。
勝沼精蔵(1886-1963)
郁達夫文学碑
郁達夫(1896-1945)は、魯迅や郭沫若らに次ぐ、中国近代文学の代表的な作家ある。大正2(1913)年に中国から来日、同4年に名大旧教養部の前身である第八高等学校(八高)に入学した。入学時は医科であったが、在学中に文科に転じ、大正8年に卒業した。
郁達夫の出世作となった小説『沈淪』(大正10年)は、その八高時代の名古屋を舞台とする自伝的小説である。その文学的価値はもとより、熱田神宮や鶴舞公園などの名所が随所に描かれており、当時の名古屋の様子もうかがい知ることができる。
八高時代の郁達夫は、犬山をはじめとする中部地方の山水風景に親しみ、各地で漢詩を書き残した。入学後まもなくから、八高の校友会雑誌や『新愛知』(現在の中日新聞)に漢詩を投稿し始め、「日本謡」を代表とする一連の秀作は、当時の大家服部擔風に高く評価された。生涯に書いた592首の漢詩のうち、229首を八高時代に書いている。
明治41(1908)年に創立された当初の第八高等学校全景
東山キャンパスの門標
「名古屋大学」の題字は、昭和56(1981)年から62年にかけて名大総長を務めた飯島宗一の揮毫による。飯島は、草創期の名古屋帝国大学医学部を卒業し、その後も大学院生、助手、講師、助教授時代も名大で過ごした、名大初の生え抜きの総長である。
名大の東山キャンパスには門標はあるが正門はない。創立当初に仮本部校舎が置かれた西二葉(現在の明和高校の辺り)には正門があり、東山移転後も鏡ヶ池の西側に正門を設ける計画であった。しかし、いつの間にかそこが名大と民有地の境界になってしまっていたため、設置を断念したとされている。もっとも、昭和35(1960)年に建設された豊田講堂の設計者である槇文彦は、豊田講堂は東山キャンパスの正門として設計し、正面から見ると略字体の門()の形をしていると語っている。名大は正門を持たないが、豊田講堂こそが象徴的な正門といえる。
東山キャンパスの門標(名古屋帝国大学の正門(西二葉仮校舎時代))
キタン庭園
「キタン」とは、『詩経』の一節「百礼既至 子孫其湛」から取られた言葉で、名大経済学部の前身にあたる名古屋高等商業学校(名高商、1920-1951)の同窓会「其湛(きたん)会」(現キタン会)の名称になった。この庭園には、名高商及び名大経済学部の同窓会であるキタン会による記念碑等が並ぶ。
主なものとしては、名高商初代校長渡辺龍聖(りゅうせい)の像がある。渡辺は15年にわたって校長を務め、全国に知られた名高商の特色ある校風を確立した。「其湛」の言葉を選んだのも渡辺である。渡辺は名高商に赴任する前、当時清国の重臣であった袁世凱の学務顧問を務めるなど、教育行政家としても知られた人物であった。
そのほかには、清川正二の記念樹と記念碑がある。清川は豊橋市出身で、名高商2年生の時にロサンゼルス五輪に出場し、100m背泳ぎで金メダルを獲得した。その後は経済人として活躍するとともに、IOC(国際五輪委員会)の副会長を務めた。
渡辺龍聖自筆書「百礼既至 子孫其湛」(キタン会所蔵)
鏡ヶ池
鏡ヶ池は、元は農業灌漑用の溜め池であったが、大正末期から始まったこの一帯の土地区画整理事業の際にも埋め立てず、自然の風趣を保存するために残された。昭和14(1939)年の名古屋帝国大学創立後も、渋沢元治初代総長が「緑の学園」をテーマとするキャンパス構想を掲げ、鏡ヶ池の水景もその重要な一環として位置づけられた。大学の外周に堀を設け、そこへ鏡ヶ池から滝を落とすなどという計画もあった。
当初の鏡ヶ池は、現在の2倍くらいの面積があり、形も正方形に近い台形であった。現在の工学部1号館やベンチャービジネスラボラトリーなどの地区は、かつては鏡ヶ池の一部であった。その後、昭和31年に第1次の、昭和54年に第2次の埋め立てがなされ、現在のような細長い台形となった。
しかし現在でも鏡ヶ池は、キャンパスの貴重な水景であると同時に、さまざまな水生生物や野鳥も観察でき、春には桜の名所となるなど、名大の憩いの場であり続けている。
昭和22(1947)年当時の鏡ヶ池(写真中央を上下に通るのが現在の四ツ谷・山手通)
農学部のメタセコイア
名大農学部第1期生が、昭和30(1955)年の卒業を記念して3本のメタセコイアを植樹した。植樹されたのは、当時農学部があった安城キャンパス(現安城市総合運動公園)で、最初は樹高1mの苗木であった。昭和41年に農学部が東山キャンパスへ移転した際、現在の場所に植樹移植されたが、すでに樹高10m近くにまで成長していた。
メタセコイアは、かつては絶滅種であると考えられていたが、昭和16年に中国四川省で樹齢450年と推定される巨木が発見され、「生きた化石」として世界的な話題となった。昭和24年、カリフォルニア大学のチェイニー教授は、昭和天皇へメタセコイアの苗木を献上した。その翌年、同教授は100本の苗木を東大農学部の原寛教授に贈り、そのうちの4本が東大の演習林に植えられた。安城に植樹されたメタセコイアの苗木は、その演習林から取れたものである。
名大農学部の同窓会は、通称を「セコイア会」とし、その会報を『セコイア通信』としている。
安城に植樹された当時のメタセコイア
「緑のトンネル」
この道は、東山キャンパスが名古屋帝国大学(名帝大)の敷地になる前、土地区画整理の際に作られたもので、本来は鏡ヶ池の北側から学生会館の南側を通る道から続いていたとつながっていた。当初、この道には樹木がほとんどなかったが、渋沢元治名帝大初代総長による「緑の学園」構想に基づき道の左右に植樹が進められ、トンネルのように見えた。
もっともこの道の南側には、当初は運動場があったためか樹木はあまり植えられていなかった。むしろ、のちに工学部5号館が建てられた工学部5号館によって日光が遮断されるようになった後の方が、南からの日光が遮断されて「緑のトンネル」のように見えるようになったかもしれない。
最近は、工学部5号館の改築や減災館の新築などに伴い、南側の樹木がますます少なくなって上空が樹木に覆われておらず、トンネルの面影はなくなってきている。
平成13(2001)年頃の「緑のトンネル」
文学研究科中庭の青桐
平成18(2006)年に文学部同窓会によって植樹された。当初初期の文学部同窓会は「青桐会」と呼ばれ、現在の会誌は『あおぎり』と名付けられている。これは、かつての文学部校舎の近くに青桐が植えられていたことにちなんだものである。
かつて青桐が植えられていたのは東山キャンパスではなく、名古屋城二の丸(現在の愛知県体育館)にあった名城キャンパス(昭和23年~38年)である。旧日本陸軍歩兵第六連隊の元兵舎が文学部の校舎であった。文学部のほか、大学本部、法学部、教育学部、附属図書館もここにあった。
現在、名城にあった文学部校舎は、愛知県犬山市の野外博物館明治村に移築されている。これは、第六連隊兵舎が明治時代に建築されたものだからである。
名城キャンパスにあった青桐
グリーンベルト
豊田講堂と中央図書館が向かい合う道筋、芝生や樹木、池などからなるグリーンベルトは、名大のメインストリートである。
東山キャンパスの東西を貫くこの道は、名古屋帝国大学の開設が決まったこの丘陵地を視察した、東京大学総長も務め安田講堂の設計などで知られる建築家・内田祥三や、日比谷公園や明治神宮、鶴舞公園などの計画に携わり「日本の公園の父」と言われる林学者・本多静六らの監修に基づき構想された。戦災などにより従来の計画からは姿を変えたが、小高い丘から遙か西方の名古屋都心を望む壮大なランドスケープが実現。グリーンベルト以南の敷地を名大が取得したのは、昭和29年度から6年の間のことであった。
昭和35(1960)年に豊田講堂が建設され、そこから西を望む道筋の北側には工学部や理学部の校舎が、南側には文系学部や教養部の校舎、古川図書館などが立ち並んだ。昭和40年頃から、芝生や樹木、池や噴水などが整備され、この道筋をグリーンベルトと呼ぶようになった。
昭和35年から始まった名大祭でも、やがてグリーベルトの両側に模擬店が立ち並ぶようになり、グリーンベルトフェスティバル(グリーンフェスティバル)と呼ばれるアマチュアバンドのコンサート会場になるなど、最も賑わう一帯になっていった。
本多の助言に基づくクスとケヤキの四条並木は70年の時を経て大きく成長し、豊田講堂や古川記念館とともに名古屋の中でも貴重な景観を形成している。
グリーンベルトが整備される前の東山キャンパス(1962年頃)
昭和塾堂(城山八幡宮、元医学部仮校舎)
昭和4(1929)年、愛知県が青年団幹部の養成等を目的として、城山八幡宮の敷地を借りて建設した。建造物としても、当時の様式をよく残す貴重な近代建築である。上から見ると「人」の字型の特徴的な形状をしている。
名古屋帝国大学(名帝大)医学部は、昭和20年3月の空襲によって鶴舞のほぼ全ての校舎を焼失した。その復興は容易ではなく、当面の仮校舎が必要であった。そこで名帝大は、昭和20年12月に愛知県から昭和塾堂の建物の無償貸与を受け、ここで医学部の講義が行われた。県に建物が返還されたのは昭和25年3月であった。
現在は、愛知県からの払い下げを受けて城山八幡宮が所有し、愛知学院大学大学院歯学研究科が研究のために借用している。廊下や階段、600人が収容できたという講堂は、ほぼ名(帝)大時代のままであるという。
建設当初の昭和塾堂(1929年)