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束田 和弘 / TSUKADA, Kazuhiro

■経歴
1971年1月2日 愛知県岡崎市にて出生
 
1975年 愛知県名古屋市名東区に転居
以降、幼〜小年期をこの地で過ごす。幼稚園は愛英西山幼稚園。担任の勝田先生(だったと思う)が好きで、幼稚園が引けた後も、よく遊びに行っていた。
1977年 名古屋市立西山小学校入学
あんまりよく覚えてない。5・6年生の時の担任の須原先生とは、今でも年賀状のやりとりをしている。
1983年 同校卒業
このころの私はデブだった。
1983年 名古屋市立神丘中学校入学
この中学校は、いわゆる”名門”(だった?)らしい。住居地の都合で自動的にここに通うことになった私は、そんなことはシラン。
1983年 岐阜県多治見市に転居と同時に多治見市立北稜中学校に転入
このころ、私はボウズだった。剣道部に入ったが、あんまり強くならなかった。
中学時代、変に理屈っぽいカタブツだったせいもあり、生徒会長なんぞをやっていた。この時期は、とにかく本を読みあさっていた。今思うと、何を血迷ったかと思うくらい、寝るのも忘れて手当たり次第、あらゆるジャンルの本を読んでいた。
1986年 同校卒業
 
1986年 岐阜県立多治見北高等学校入学
この高校は、”地元では”進学校として通っている。特に勉強をしなかった1年の頃は、底辺あたりを彷徨っていた。1年の終わり頃、何を思ったか「医者になろう」と決心。以来、必死に勉強したが、なかなかきつく、思うように成績が上がらず焦る。基礎解析なんてさっぱり分かんなかった(*1)。読書の虫だったのは相変わらず。ただ中学時代と違い、文学的なモノより、政治的、社会的なモノをよく読んでいた。医学部志望だった私は理系クラスに属していたが、むしろ文系の成績の方がよく、古文の某先生に、「君は絶対文系に行くべきだ」と文系志望を強く進められた。中学時代と同じく剣道部に入ったが、ほとんど活動していない。
1989年 同校卒業
 
1989年 富山大学理学部地球科学科入学
高校時代、医学部を目指していたはずが、何故か理学部のしかも、地学系に。
共通一次の点数が足りず、医学部受験を断念。かといって、浪人してさらに1年勉強するのも嫌だったし、安易に、「医学部と理学部って音が似てるよなぁ」という理由で、理学部に志望を変更。地学系にしたのは、なんとなく”地球科学”という響きがカッコ良かったのと、富山大学には「雪氷学講座」があったから。受験雑誌には、「日本で雪氷学をやっている大学(学部のことね)はココだけ」みたいなことが書いてあるし、「医学部以外ならみんないっしょ。どこでもいいや」と思っていた私は、斯くして同大学に入学。呆れた受験生だったわけです。それまで、地学の”地の字”にも触れたことがなかったのに・・・
中学・高校時代と同じく剣道部に入ったが、今までほとんどマジメにやっていなかった私が強いはずがなく、4年間試合に出ることなく床を暖め続けた。練習もサボりがちで、先輩によく怒られた。酒を覚えたのはこの頃。高校時代から、冷蔵庫の中のワインや父親の日本酒を夜な夜なチビチビやっていたが、本格的に飲むようになったのは大学に入ってから。体育会系ということもあり、コンパでの飲み方は激しかった。以降、数々の伝説を築きあげる。また、今まで「バカバカしい」と取らなかった段位を、「格好がつかんから」と言われてとる(初段)。以来、昇段試験は一度も受けていない(受かるかどうかは別として)。
1990年 富山大学理学部地球科学科教養課程修了
特に目的を持って大学に進学したわけではないので、入学と同時に、学校へも行かず、遊び呆けていた。おかげで単位が足りず、あわや留年か、という事態に陥ったが、なんとか無事に専門移行を果たす。2年前期(教養課程最終期)は辛かった。月曜と火曜は1日5コマの語学(要するに2日間全時限語学)があったし、自然科学は、1単位も取れてなかったし。しかし今思うと、教養時代の”バカな”時間は自分にとって、大変有益だったと思う。原理研のアジトに乗り込んでいって議論を楽しんだり、左翼系の学生と行動を共にしてみたり、酒を飲み過ぎて富山駅で浮浪者に混じって朝まで寝てたり、ツクシだけで1週間過ごしてみたり、実家(多治見)まで1週間かけて歩いて帰ったり。ハタから見たら、到底理解しがたい行動ばかりとっていた。
1990年 富山大学理学部地球科学科専門課程へ移行
無事(?)専門移行を果たして、また糸が切れる。というか、中学・高校時代地学には全く縁のなかった私には、大学の専門の授業はちんぷんかんぷんだった。高校時代それなりに勉強した化学や数学の知識は、教養時代にすっかりリセットされ、ボイル・シャルルの法則さえ思い出せないていたらく。さすがにショックだった。人間とは斯くも容易に忘れることのできる動物なのか、と実感した。授業が解らない=面白くない、ということで、あまりまじめに出席しなかった。出席しても、居眠りしている友人に消しゴム投げてイタズラしたり、友人を見ながら「居眠り姿勢と眠りの深さの関係についての一考察」みたいな題で、“自主レポート”を書いていたりした。今、自分が教える立場になってみて改めて、当時の先生方に大変申し訳なく思うと同時に、富山大学の教育レベルの高さに驚く。実に内容の濃い授業だった。特に、堀越 叡先生の「一般地質学」、「日本列島地質誌」、「地殻進化学」は圧巻だった。この3つの授業の教科書は、今でも私のバイブル的存在である。まったくもったいないことをした。
1992年 単位が足りず、卒業研究に入れず(要するに留年)
とうとうやっちまった・・・ 4単位(2コマ)足りず、留年。私をよく知る、地質系のある先生によると「あの頃のお前は、超劣等生だった」そうだ。この頃は、雪氷学よりも、地質学の方に興味が傾いていた。なぜなら、巡検(野外実習みたいなモノ。有名な地層を見学する)や進論(*2 進級論文の略)が楽しかったから。決して学問的興味からではないところが、如何にも自分らしい。親には、「お前の一貫性のなさには呆れかえる」とか言われる。ということで、1年に2コマしかなく、ヒマだということで、某教授(後に指導教官となる)の温情で、地殻進化学講座(地質学の講座)に机をもらう。この時期は、ホントによく勉強した。上述の「一般地質学」と「日本列島地質誌」の教科書は全部暗記した。あと、都城秋穂・久城育夫の「岩石学・」と「岩石学・」もほとんど暗記した(かなり忘れてるかも)。また、中古生界古生物にも興味があったので、授業はなかったが、自分で教科書を選んでサンゴと有孔虫について勉強した(ほとんど忘れたけど)。このとき勉強したことは、今でも役立っている(?)。大学時代で最も充実していた時期かもしれない。
1993年 1年遅れで卒業研究を始める
昨年度からテーマをもらって、ぼちぼち始めてはいたのだが、真剣に取り組んだのはこの年から。テーマは「岐阜県上宝村栃尾周辺の地質」。未だもってこの周辺地域の地質をメシの種にしているので、ずいぶんと息の長いテーマということになる(束田の仕事が遅いだけというハナシもある)。良いテーマであることは間違いない。が、当時の私は、そんなこと知る由もない。
1994年 富山大学理学部地球科学科卒業
なんとか、卒業しました。今思い返すと、大変恥ずかしい卒論です。
1994年 富山大学大学院理学研究科地球科学専攻入学
学部の初めの頃は、適当にどっかに就職できればいいと思ってたが、もう少し学問を味わってみたくて、大学院に進学する。多少はマ男 じゃなくて、マ人間になったか?

M1
の時受けた大藤 茂先生の大学院講義(講義名は忘れちゃった)にて、地質学の面白さに目覚める。この講義は、各人が東アジアの地質についての論文を読んで内容を紹介し、それについて自由に喧々諤々の議論をするという形式で行われた。先生の東亜の地質に関する造旨の深さとセンスには、まったくもって驚嘆させられた。その後も自分の研究について、ことある毎に議論していただいている、恩師の一人である。

M2
この頃には、研究が面白くなり、そのまま就職して研究をやめるのが惜しくなって、博士課程進学を考えるようになる。また、元来の凝り性な性格のせいか、意地になってHF 処理(*3)をしていたら、オルドビス紀のコノドント(日本最古の化石)を見つけてしまった。修士課程時代は、狂ったようにいろんな論文を読みあさった。そしてその都度、学生や先生と夜遅くまで(もちろんアルコールを入れながら)喧々諤々の議論をしていた。あの時期、研究の仕方や研究者のものの考え方というものを少しずつ身に付けていったと思う。今思えば、幸せな時間だった。
1996年 富山大学大学院理学研究科地球科学専攻修了
なんとか、修了しました。今思い返すと、大変恥ずかしい修論です。
1996年 名古屋大学大学院理学研究科地球惑星理学専攻博士後期課程入学
博士課程に進学しました。研究室の自由な雰囲気に驚く。富山大は、常に緊張感がみなぎっているような感じだったのに対し、名大は実にのびのびとやっている。どちらが良いとは一長一短なので言い難いが、大学によってこんなにも雰囲気が違うモノかと一種のカルチャーショックを受ける。と同時に、「元来ナマケモノの私のこと、これは常に自制してないと、とんでもないバカになってしまう」と自覚。1・2年目は無我夢中で研究に打ち込む。フィールドに2〜3ヶ月間こもることも珍しくないので、研究室では、”ツチノコ”扱いされる。初めて論文を書いたのは、名大に来てから。
また、名大のスタッフ(足立先生、小嶋先生(現岐阜大)、竹内先生)との議論を通じて、今まで培ってきた(といっても大して培っちゃいないけど)”富山大的見方”とは違った角度からの見方を覚える。「できるだけいろんな大学を渡り歩くべきだ」との持論は、この時以来。
1998年 地質学会より小籐賞授与
”日本最古の化石の発見”が対象。タダ酒飲めて幸せでした。
1998年 日本学術振興会特別研究員に採用
びびりました。まさか当たるとは思っていなかったもので・・・ おかげで、かなりリッチな生活に。というか、それまでが悲惨だったというか・・・ ご飯とみそ汁だけで1が月生活したこともありました。地質調査には金がかかる。
1998年 名古屋大学大学院理学研究科地球惑星理学専攻博士後期課程退学
助手に採用されたため。
1998年 名古屋大学大学院理学研究科助手に採用
1999年 結婚
結婚しました。ついでに子供(息子)も産まれました。“這えば立て、立てば歩めの親ゴゴロ”を地で行っていました。
2000年 名古屋大学博物館に異動
博物館の仕事は面白いです。が反面、自分がどんどん“地質学”から遠ざかっていってしまうような。。。 いかんいかん。
2002年 第2子(娘)が誕生
子どもはかわいいです。こんなかわいい子がいつかは嫁に行っちゃうと思うと。。。 さだまさしの「親父の一番長い日」が早くも頭の中でぐるぐる回っています。
2003年 エックス線作業主任者試験に合格
高校時代は物理ダメ、大学時代もX線関係の授業はまったく取っていない、X線ド素人の私にはえらい難儀でした。高い受験料払って受ける以上(送料含め約9000円!)、落ちるわけには絶対行かない! と一念発起し、2ヶ月間休日返上で勉強しました。おかげで、労働安全衛生法施行令(関係分)と電離放射線障害防止規則は、すべて頭の中に。しかし試験後、あっという間に頭の中から抜けていきました。学生時代より、記憶が抜けるのがなんだか早くなっていないかい??? 気のせいだと思い込みたい。。。
2003年 学位審査会
なんとか通していただきました。。。 直前に子供が病気して、当日はふらふらになりながらも、気合いだけでプレゼンを乗り切りました。はっきり言って準備不足! だったので、「事実に基づいて、言えるところまではきちんと確実に論証する。怪しげなモデルや予想については、一切、口にしない」と心に決め、手堅いプレゼンを心がけました。そのおかげで、地域地質に偏った、やや面白み(インパクト)に欠けるプレゼンでしたが、曖昧なこと、いいかげんなことは言いませんでした。まあ、“oral defense”なので、ある意味、ディフェンスといえばディフェンス(自己防衛)ですな。。。 現在に至る。

早く学位を取れとのプレッシャーの中、「ウチは母子家庭だから」と妻に皮肉を言われつつ、イモ虫のようにゆっくりゆっくり、のたくっています。「やりたいことは山程あるのに、とにかく時間がない!」と叫んでみても始まらないので、時間を見つけて、できることから少しずつやっていこうと思っています。心はまだ20代のつもりなのに(32になっちゃいました。りっぱなおっさんやん。。。)、最近、体が思うように動かない自分にちょっとイライラしています。
■注釈
*1 本人の名誉のため。一応、3年の終わり頃は、某国立大医学部志望で、模試で A 判定貰ってました。
*2 進論:地学系学科では、大学2 or 3年次に地質調査の練習をさせるところがある。単位数が多く、これを落とすと即留年につながるので、進級論文と呼ばれている(別の正式な授業名があったはずだが忘れた)。内容はだいたいどこの大学でも同じで、春〜夏にかけて数週間、山に籠もり、その地域の地質調査をして来るというもの。富山大では、3年次の夏休みの内、3週間”以上”(下界に戻ってきてはならない)を使って、富山県八尾町内の丘陵地の地質を調査してくる、というものだった。私には、3週間の山での共同生活は結構楽しかったが、”都会的”な人には耐え難い苦痛であるらしい。
*3 HF 処理:化石を母岩から取り出す手法の一種。主に、微化石の抽出に用いられる。珪質岩(石英(SiO2 )を多く含んだ岩石)が、フッ酸(HF)に融けることを利用して、化石を珪質岩から取り出す。私の場合は、641試料を検鏡・記載し、そこで選んだ約280試料についてHF 処理を4回づつ行った。これで何も出なかったら・・・ 意地になれるというのは青さ故かな。